翌25日は午後二時より例祭を執行し、午後七時より法楽として式三番(しきさんばん)、神能(しんのう)を奉納します。これは無事御座替が終わったことを祝賀する祭です。 神能の構成はシテ、ワキ、ツレ、トモといった役立ちとなっており、また、詞と詞の間を地謡でつなぎ、囃子を笛、太鼓、大鼓、小鼓を主とするというところは能形式といわれ、他の神楽などと大きく違う点です。こういう特色を持った神事芸能は他に例がなく、近世初期にいち早く作り上げられたものが、今日にいたるまで格調を落とさず伝えられている点は特筆すべきことだといえます。 そしてこの祭に演舞される神事舞が各地の里神楽に少なからず影響を与えたとされています。この七座神事、式三番、神能の三つの神事舞を佐陀神能と称し現在、佐陀神能保存会が維持継承し、祭に奉仕しています。 佐陀神能は昭和51年5月に国の重要無形民俗文化財に指定、平成23年11月28日ユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。
七座神事(しちざしんじ) 七座神事は御座替祭で新しく御神座に敷く茣蓙を舞い清めるために執り行うもので剣舞(けんまい)・散供(さんぐ)・御座(ござ)・清目(きよめ)・勧請(かんじょう)・手草(たくさ)・八乙女(やおとめ)の七座からなり舞にはそれぞれ場所や物を清めたり、神降しや神遊びの意味があり、剣、小幣、榊、茣蓙、大幣、中啓、鈴等の採物を持って舞います。 「七座」の語は文献の上では天文三(1534)年の「大野高宮社記(おおのたかのみやしゃき)」に「八月廿四、五日御座替御祭礼為式日、令執行七座神事」とあり、古くからこの地方での祭りとして御座替に七座神事が行われていたことが窺えます。 享保2年に黒沢長尚の記した「雲陽誌(うんようし)」には39社の祭事に「七座神事あり」と記されており、この七座神事は出雲のほぼ全域に於いて祭式とされていたようです。しかし、明治の神社制度改革によって祭式次第が改められ、今日では七座を祭式とする形は無くなってしまいました。 江戸期には七座の中に「祝詞(のりと)」があり、七座の祭式色が強かったことがうかがえます。
舞の名称
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人数
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舞の目的
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採物
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剣舞(けんまい)
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4人
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剣を用い邪悪なものを祓い清める舞
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前段 鈴・小幣
後段 剣
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散供(さんぐう・さんく)
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1人
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斎場を清める舞
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榊・中啓
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清目(きよめ)
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1人
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斎場を清める舞
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小幣・中啓
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御座(ござ)
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1人
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御神座に敷く茣蓙を清める舞
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茣蓙・中啓
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勧請(かんじょう)
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1人
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神降ろしの舞
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大幣・中啓
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八乙女(やおとめ)
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1人
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神なごみの舞(巫女舞)
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榊・鈴
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手草(たくさ)
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2人
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神なごみの舞
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榊・鈴
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式三番・神能 御座替祭を終えた翌日の日中に例祭が執り行われ、その夜には法楽として舞殿で式三番、神能が演舞されます。式三番は南北朝時代の猿楽能に起源をもち、現在国内各地の芸能として伝承されています。 当社に伝わる式三番は能楽のものと比較すると、舞の形式や形態に地方色・古式がみられます。式三番は猿楽の根本として神聖視されている能で、「翁(おきな)」(シテ)、「千歳(せんざい)」(ワキ)、「三番叟(さんばそう)」(狂言)の三人の舞手が順に舞うもので、全体を通じて筋が無くめでたい詞や囃子詞をつづり合わせたものとなっています。 神能は江戸時代初頭に当社で大成されたと伝えられる能形式の神楽です。慶長13(西暦1608)年に当社の上官(じょうがん)で神楽司(かぐらつかさ)であった禰宜(ねぎ)幣主祝(へいぬしはふり)宮川兵部少輔秀行が神職裁許状を受けるため、京、吉田社に上り、その当時都で流行っていた猿楽・幸若(こうわか)等の形式によって創作したのではないか云われています。 【それ以前の永正9(1512)年の祭事記録の写しには、8月25日に「御法楽祭」の記載があることから、神能の成立がそのころまで遡る可能性があります。】 また、当社寛永16(1639)年の記録に猿楽大夫がいたことが記載されていることから、この猿楽大夫の存在が神能成立に関与したのではないかとも考えられます。
神能の演目は当社の縁起を語る「大社(おおやしろ)」をはじめ「真切女(まきりめ)」「恵比須(えびす)」「八幡(やわた)」「日本武(やまとだけ)」「磐戸(いわと)」「三韓(さんかん)」「住吉(すみよし)」「荒神(こうじん)」「厳島(いつくしま)」「武甕槌(たけみかずち)」「八重垣(やえがき)」の十二段からなります。 七座神事・式三番・神能を執り行う形式は近世初頭に当社で確立され、その形式は出雲國内の神楽はもとより、多くの里神楽に影響を与えたとされています。 昨今の伝統芸能と称すものの中にも時代とともに演出や脚色が施され、姿形をかえてゆくものが多くある中で、今もなお、当時の遺風を伝え、格調を落とさず継承されている点でも特筆すべきものであります。
佐陀神能保存会 江戸時代を通じ旧8月24日の御座替祭、翌25日の法楽として舞われる式三番・神能は当社の支配下にあった佐陀触下と呼ばれる出雲國三郡半の神職・巫女が奉仕する慣わしでした。しかし明治の神社制度改革に伴い、触下制度停止や社人の減少、神職の演舞禁止等の事情により祭の維持さえも難しくなりました。明治の間は旧社人で何とか祭を維持していましたが時代とともに継承が難しくなってきました。そこで大正8年氏子有志で古伝神事保存協会に神能部をつくり、御座替祭に奉仕するようになりました。(現在の佐陀神能保存会の前身団体。) 「佐陀神能」の名称は、大正15年に東京の青年会館で行われた第二回全国郷土舞踊民謡大会に出場し、神能を舞った際に命名したのに始まり、現在では「七座神事」「式三番」「神能」の総称として使われています。 「佐陀神能」は、昭和27年4月に文化財保護法による「選定」に加えられ、昭和36年6月に島根県無形民俗文化財指定され、昭和45年6月に文化財保護法による「記録作成の措置を講ずべき無形文化財」に選ばれ、昭和51年5月に重要無形民俗文化財に指定されました。 現在は当社御座替祭の他、近隣諸社の例祭の法楽として請われて演舞したり民俗芸能大会等での演舞、福祉施設の慰問等にも積極的に奉仕しています。
佐陀神能保存会(さだしんのうほぞんかい) ○代表者 会長 石橋淳一 ○事務局 島根県松江市鹿島町佐陀宮内73 佐太神社社務所内
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